2010年04月30日

普天間の歴史は複雑なり

今日は、宜野湾市普天間の歴史の一部を紹介したいと思います。
「ここもう少し補足してほしい!」というところや、「ここは間違っているよ!」
というところがありましたら、ご指摘くださいエイサー

≪米軍上陸前の宜野湾村≫
普天間の歴史は複雑なり
1944年(昭和49年)9月米軍が上陸用の作戦地図を作るために撮ったもの。
宜野湾市ホームページよりhttp://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/1843.html
宜野湾の人々は、もともと農家が多かったとのこと
よく見ると、田んぼらしきものが見えますね。


まずは、戦前の人々の暮らしぶりから、戦後、普天間基地ができてドーナツ型の都市へと
移り変わっていく様子を急ぎ足ではありますが、紹介したいと思います。

戦前、宜野湾地域一帯は湧き水や川などがあり、
水が豊富にある場所で、さいつまいも等の栽培が行われていた
のどかな農村地帯でした。

普天間の歴史は複雑なり
普天間の歴史は複雑なり
宜野湾の現在の田園地帯
(大山田いも畑)






また、戦前の普天満宮はうっ蒼とした松並木で覆われ、
宜野湾の人々と松の関係は深いものがありました。
普天間の歴史は複雑なり
「宜野湾並松」は、1932(昭和7)年4月には天然記念物に指定されました。
宜野湾街道一帯は、松並木で大変緑の豊かなところにありましたので、
那覇に出るときなどは、松並木の木陰で一息いれたり、憩える場所になっていました。
宜野湾松並木について詳しくはこちらをどうぞ↓
http://www.ginowan-okn.ed.jp/ginowan_kidd/word/hs05.html

1945年4月1日米軍上陸(第二次世界大戦)
4月下旬までには、首里、宜野湾まで進む。
5月4〜5日に普天間地区を含む首里戦線で反転攻勢を試みたが、大打撃を受け失敗。
日本本土侵攻の出撃基地として普天間に飛行場建設。

1945(昭和20)年  
≪普天間飛行場≫
普天間の歴史は複雑なり
米軍上陸と同時に建設が始められ、短期間に普天間飛行場も整備された。至る所に軍用施設が建設。
宜野湾市ホームページよりhttp://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2655/1735.html

松並木は、米軍の侵入を防ぐ為に日本軍が切り倒してしまったのと
戦後の基地建設や道路拡張、松食い虫の影響などがあり、今ではなくなってしまいました。
(戦後、人々が松を切り倒して薪代わりにし食糧と交換した。という話も聞いたことがあります。)

終戦後も、米軍の前線基地が建設され、立ち入り禁止地域になっていました。
戦場を生き残った宜野湾市民は、野嵩や島袋(北中城村)などに設置された民間人収容所へと
収容され「戦後の生活」をスタートさせていきました。
とはいえ、収容所での生活も、時おり収容所の中へ砲弾が流れ込んできたり、
日本軍の兵士が民間人に扮し紛れ込むなど、民間収容所もまた戦時下にありました。
間もなくすると、野嵩や島袋に収容された人びとは、次々に北部の収容所へと移送され、
宜野湾村民は各地へ離散していきました。

普天間飛行場(1945年6月〜)は、戦後すぐはフェンスがなく
そのため人々は、飛行場の中に入り、資材などを拾って、家を建てることもあったそうです。


次回は、米軍から普天間地区がいち早く解放され、大きく発展していく様子を紹介したいと思います。
普天間の歴史は複雑なり
2000年の宜野湾市











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Posted by エリカ様 at 17:25│Comments(0)ふてんまの歴史
 
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